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「誤訳の構造」に思う

ネット上の評判がなかなかよろしかったので買ってみたのが左の本。「誤訳の構造」というタイトルは、イケてると思うw。
おもしろいなと思ったのは、例えば
Gelfand's face split into parts.
を「ゲルファンドの顔はいろいろな部分に分裂した」と訳した例について、それはそれで正しい訳なのだとしている点だ。なぜ「正しい」と断じ得るかというと、文法的には誤っておらんから、らしい。文法的に正しければ後はナニを言おうとOKかいwということになるが、少なくとも、明確さにおいては優れたタイドのひとつではある。
もっとも、考えてみれば翻訳の作業なんてものは、言わば異文化間でのイメージのQSPなわけだから、誤訳かどうかは別として、オリジナルのイメージからのズレってのが、起きないわけがないわけだわなあ。
そういう観点からすると、そもそもその翻訳が名訳か悪訳か誤訳かなどを論ずること自体、もともと意味があらへんのかもわからん。
本書はネット上の書評によれば、平均的受験生の学習によく使われているらしいが、ワシが思うに、ちょっとそれは勿体無いんじゃないの、という気がする。英語学というよりは文化論に近い気がする。
ところでこの「英語学というよりは文化論」というヤツなんだけど、最近QsoNetであれこれしゃべっていて、自分が面白がっているのは、外国語での会話というよりも、外国語に対しての参加者みなみなさまのご姿勢、ということに気づいた。悪訳みたいな文だなw。
前々から、日本人は実力よりずっと低め低めに、謙抑的にしかしゃべらん勿体無いと言ってきたけど、ここへきて、どう聴いても滅茶苦茶なのに、えらい自信満々にしゃべってやがるなコイツはという日本人の存在が、自分をふくめてみょうに目につくw耳に障るww。
発音もワヤ、文法もワヤなのは、米人が許してもおれが許さん。聴いてて疲れる。少しはKuう気をYoめと言いたい。 あまりに努力の跡が見られぬ場合、いずれ名指しするσ(^。^)バキ☆\”(^。^)。