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長崎女子高生殺人事件で考える
背筋の凍りつくようなおぞましい事件であって、おそらくは今世紀犯罪史に残ることであらふ。
マスメディアではあまり多くを取り上げていないようだが、日本の放送自粛体質では、とても報道できないことが多いようだ。
なのでワシは、ネットを駆使して、ほぼすべての画像とウワサレベルの話を見てきた。途中、何度か寒気を感じ、逃げ出したくなったが、いちおうがんばってワシなりに解明し、ソレナリの見解を持たねばと思ったわけだ。他人ごととしてはいかんと思う。
結論としては「理解不能」。計画的衝動殺人とでも言うか、動機形成の端緒がない。
途中で何度か、酒鬼薔薇事件を連想した。酒鬼薔薇事件は、法的には決着をみているが、実際のところ、残されたまあになっている問題は大きい。この事件と、非常に類似している印象を受ける。
さてワタクシは、あれこれ見ている途中で、犯罪学の祖・イタリア人学者ロンブローゾの「生来的犯罪人」という学説を思い脱した。ロンブローゾは法律家ではなく、むしろ医学者であり、様々な解剖例を経て犯罪者に共通する身体的特徴を見出して、「生まれつき、犯罪者性向を持った人間」が存在すると主張した。
言うまでもなく、近代民主主義は、およそ人の能力は平等であり、それぞれが自己決定して社会参画することで社会全体は進歩するという発想に立つ。個々人は、尊重されるべき人格の持ち主であると擬制されている。
ロンブローゾの指摘はこれに真っ向から対立するものであり、犯罪学は大混乱に陥ったが、しかし同時に、犯罪学説はこの時期に急速に進歩し複雑化し、後世の法学生を苦しめる基盤づくりに励む凸。
たとえば、人間は自由意思の持ち主か、それとも、先天的に行動を決定された存在かという哲学的難題と向き合わねばならなくなる。
今回強く考えさせられるのは、この、人が犯罪を犯すのは、先天的にDNAレベルで決定していることなのか、それとも後天的に、環境の中で決定していくことなのか、の問題だ。
( 少々わかりにくいかと思われるので、ダイレクトに言い換えると、今回のこの容疑者女子高生は、自分の意思でやったのは当然として、その「意思」は先天的な悪性によるものか、それとも後天的な、環境とのやりとりの中で形成された人格によるものかということだ。これ以上ダイレクトには書けん。)
さて、この論点は、社会科学のほぼ全範囲にわたって影響を及ぼす。
例えば教育学。
仮に、前者であるとすると、長崎県教委などが言うておる「いのちの大切さを伝える教育」なんてのは、なんの意味もないことになる。
教育でDNAが変わるなら、教育でハゲも治せることになる。
ちょっと観点は変わるが、「天才」の存在、つまり「生まれながらに天賦の才能」を持った人間がいると考える人間は、同様に、「生まれながらの犯罪者」がいるとしないと、考え方としてはバランスを欠く。
なお、酒鬼薔薇事件の犯人生徒は「直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者」だそうである。
父親が弁護士で、地元の名士との評価あり。母親は東大卒で地元教委のメンバー。
兄は全国有数の(全国、ね)成績をおさめ、当人も成績は極めて優秀、スポーツ畑芸術畑での表彰例多し。
いわば天才肌。
この中に「悪性」が存在したことを見抜けと言われても、学校レベルでは無理だっただろうと思う。
どうするね、これ。
もちろん刑法学。
懲罰としての刑罰は、犯罪意思を主体的に形成した者への応報である。先天的に悪意があるなら「応報」は論理的にあり得ない。
応報目的も不可、教育目的も不可となると、残るは「処分」しかない。「死刑」ではなく「殺処分」ということになる。
(自由意思の存在しない者に対して刑の執行が不可能なのは、死刑囚・麻原彰晃で問題視されているとおり)
酒鬼薔薇事件がまだ終わってないのは、保護観察期間を経ていまは一般人として過ごしている元犯人が、では今後、まったく平穏に生き、その生涯を通じて贖罪を全うできるかが不明だからだ。
また、月々4000円を賠償金として支払っているというその元少年は、仕事を終えたあとは自宅でゲームで遊ぶなどして、「ふつうの生活」をしているというが、殺された少年少女は、もう絶対にゲームなどできない。
仮に、ロンブローゾが言うような「生来的犯罪人」が存在するなら、日本の社会システムは無防備すぎると言える。
日本社会はいま、襟首つかまれ首筋にナイフを突きつけられている状態にあるように思われてならん。
外交。
人間に生来的犯罪人があるなら、国家に生来的犯罪国家というものが観念されるのは当然。中国共産党と金王朝がそれにあたると思われる。
がん細胞は外科的には取り去ってしまう処置があるように、レーザー照射で焼き切るハラを括るなどの態度も必要となる。
もっとも、東洋医学はそういうアプローチを取らんらしいが。
わしは、生来的犯罪人というのは、あると思う。
少年法を改正し、極刑もアリとすべきだと考える。むしろ少年こそ重罰化して良いとも思う。
教育・慰撫によって社会化を図るという考え方は、取らん。社会の負担がデカすぎる。
早い話が、殺された子がかわいそうでならん。「お泊り会」に誘われて、出かけてっただけなんだぞ。