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卒倒したわ凸 @衆議院予算委員会
国会中継がなかなか面白い。
アベノミクス絶好調とあって、反対のための反対というのがしにくくなり、わりときちんと中身をギロンしようという姿勢があるように見受けられる。若干、追従気味なのが気になるが、そこはアベ首相の丁寧さでもって、なんとかカタチができている感じがする。
さて、東国原氏らがなかなか良い質問をしているなかで、昨日の 浮島とも子議員(公明)がくだらん質問をだらだらやった最後に言い放った一言に、わしはひっくり返った。聞きちがいかも知れんと思い、衆議院Webの録画中継を見なおしたぐらいだ凸。
で、浮島氏いわく
社会のための教育でなく、教育のための社会の構築に向かって私も全力で頑張って参ります
なんだけど、これで卒倒しそうになるオレがヘンなのかどうか、諸兄のご意見を賜りたい。
社会のための医療でなく、医療のための社会
社会のための福祉でなく、福祉のための社会
社会のための道路でなく、道路のための社会
社会のための原発でなく、原発のための社会凸
社会のための企業でなく、企業のための社会
社会のための学問でなく、学問のための社会
社会のための政治でなく、政治のための社会
あといろいろ
あるわけなんだけど、どれが正しくてどれが間違いなのか。ぜんぶ正しいのか。ぜんぶ間違っているのか。どー思いますあなた。
医療とか福祉とか学問とか教育とか、ぜんぶ美名でございましてですね。こういうのは、それ自体が目的化し、正義を主張する。その正義は絶対的正義であって、制限することを許さない。全員死んでも医療は守れというような主張になりかねん。
阿呆とちがうかとおれは思うのだが。
おれの言うとることが、反弱者かというとそんなことはぜんぜんなくてですね。
社会のためになるから福祉を守れ とおれは言うておるわけだ。福祉の増進は社会全体の利益となる。福祉の目的は「社会の利益の増進」だ。つまり 社会のための福祉 なんだけどね。このほうが目的意識が高まろうと思うが。
目的は、この前の民主党の小西あほんだら議員が法学部一回生レベルのことをぎゃあぎゃあ言うとおり、現行憲法上は「個人人格の実現」なわけだ。その総体を便宜上、「社会」と呼ぶ。
福祉やら教育やら医療やら企業やら学問やらなんたらやらかんたらやらってのは、ぜーんぶ『 手段 』なわけよ。
もう一度言う。教育は「手段」のひとつである。教育ナシでシアワセになれるのなら、それで良い。そのほうが良い。
アマチュア無線で言うなら、資格なしでアマチュア無線が楽しめる社会なら、それで良い。いまはそういう社会状況にないから資格制度がある。資格は手段だ。資格制度のためにアマチュア無線があるわけではない。
話は変わるが。
このあとで、枝野だったかが言うておったが、要するに、所得一千万円の家庭のこどもは、学校外での教育も受けられる(予備校とか)が、所得二百万円ではそうもいかん、それナントカせぇという民主党そのものの意見を開陳しておった。
わしは2つの点で疑問がある。
今後、より高度な教育を受けた者ほど、より高額な収入を得られるという主張を裏付けるものはあるのか。あ?
というのと、
低所得者層のこどもには、大学なんか行かんでも高所得を得られる道を用意してやったほうが親切ちがうか。あ?
だ。
民主党的「教育の充実」というのは、もう早い話が 教育関係者にラクさせろ という以外のなにものでもない。枝野の質問にあらわれているのが
こども手当て持ってコイ、全部授業料として取り上げたる。おれらの儲けじゃけけけけ。
授業?あほか、予備校行ってベンキョしてこい。おれらに授業施行の能力はない。
おれらはおまえらに「生きる力」を語るだけだ。
だわな。
いま、大学講師風情のギャラが、コンビニの兄ちゃん姉ちゃんより下だという現実を知って真っ赤。大学での授業ってのは、肩書きとしてカッコつく(と思ってるヤツが多い)ので、「やらせていただくもの」らすぃ。
ま、テレビに出てくるあれこれの大学教員見りゃわかるわな凸。
ところが、教える側じゃなくって、事務方、つまり大学事務職員の給与ってのはベラボーだぞ。知ってるか。
これは全部「私学助成」だ。税金かっくらってやってやがるが、大学の自治だの抜かすため、なかなかタチが悪い。これは私学の場合だが、大学に限らず、高校も中学もそうだ。
たまに地下鉄駅前で、私学の女子高生たちが「私学助成削減反対の書名お願い♪」ってのをやってるのを見ると、おまえらガッコからきちんとバイト代もらってるのかと言いたくなる。オレは署名は絶対にしない凸。デキの良い女子高生をみて、将来性があるなら個別にカンパしてやることにはヤブサカでない。これは援助交際という意味ではないぞ。
もっとも、私学助成なんてものは、「制度化された援助交際」みたいなもんだわな凸
てなわけで、このブログをごらんの賢明な諸兄におかれては、「教育のための社会」みたいなトロいことを考える連中のせいで、学校運営はもはや公共事業と変わらぬ利権となっているということを知られたいと思うわけだ。
こどものためとか、みらいのためとかいう言葉にダマされてはいかん。