
YouTubeでたまたま見つけた映像がこれ。
あのコシノ三姉妹を生み出した場所がいまこうなのかと愕然とした。
当地名古屋でも、少なからざる老舗商店街というのはあるが、もう今やぜんぶ息絶え絶え。それに比べればこちら岸和田本通商店街は立派ではあるが、それでも本来はこんなもんじゃなかったはずだ。
最近実は、日本の社会と経済を摩滅させたのは、円高とかリーマンショックとか、そんなんじゃなくて、「大店法」ではなかったかという気がしてならん。
もともと商店街させなかったようなド田舎は別として、商店街を中心としたコミュニティが成立していた地域では、大店法によって地域自体が壊滅した。
BTW
この前、郵便局でブチギレして、「てめぇ、あとはオレんちへ来て手続きしやがれ」つったら、郵便局員はきちんとあとから来てくれたんだけど、そのとき、電話がかかってきて
「これからお伺いしますが、どちらでしょうか」
と抜かす。
目と鼻の先であるw。住所も書いてある。それを分からんという。郵便局員がだ。愕然とした。
特定郵便局の廃止と民営化は、合理化の名の下に行われたわけなんだけど、結局それは経営規模の大型化を意味し、従って、個々の労働力が匿名化することにつながった。これは「無責任化」と言っていい。
BTW2
学生時代に、そりゃあまあオレたちの時代は、自分のクルマを持つことが大人の証明であり、新車が発表されると、カネもないのにあっちゃこっちゃのカーディーラーへ行って、あーでもねーこーでもねーと能書き垂れたりするのが、暇つぶしのひとつの方法だった。
そのとき、愛知トヨタだったかと思うが、そのとき出会った歌見さんというセールスマンの印象が強烈で忘れられん。
早朝野球のユニフォームのまんま、泥だらけで何人かの若造が入っていくわけだ。どうせ買わないと分かってはいても、セールスマンは楽しそうに相手をしてくれた。
その時初めて会った歌見さんとの会話は、こうだった。
「坊やたち、どっちから来た?」
「あっち」
「あっちってどっち」
「両茶橋のほう」
「両茶橋からどっち」
「南へ行って一本目を左。無線タワの立ってる家」
「う~ん・・・。伊藤さん?」
どれだけビックリしたか想像して欲しい。
「犬がいるでしょ。長男の強さん?」
「そうです。コイツ弟です。」
「じゃあ、○○さん。」
「げげげ。じゃあコイツわかりますか。昭和橋交差点一本北を西へ入って直ぐのボロ屋」「山田さんだね。三兄弟。」
若いときに、持ちエリアは全部歩いて、家族構成からなにからぜんぶ頭に入っているのだという。どこの家がそろそろクルマを必要としているはずだとか、そういうことが分かってなくてこの仕事ができるか、ということだった。
田舎とちゃうで、万単位の家があるで。
てなわけで、ワシはいまだにこの人を日本一のセールスマンというか、男の鑑だと思っているわけなんだが、いやー、どうしてこういうことが可能なのだ。
てなわけで、ワシらの中には歌見ファンが出て、彼は歌見さんからでないといまだにクルマは買わない。不合理である。しかしそれが人間社会のありようである。
話は変わるが、高校生時代に年賀状配達のバイトをしたときも、港区内がぜんぶ頭に入っているという局員がいた。封筒の裏だけ見ても配達ができるそうだw。
彼の配達でないと受け取らないという人間はおらんと思うが、なんちうか、合理性の枠を超えたものが日本の社会と経済を支えていたことも、また事実なんだよなあ。
さて話はもどる。
大店法は失敗である。ただでさえ心許なかった日本の基礎共同体を壊滅状態にした。経済合理性と引き換えに失ったものが大きすぎる。
が、あのときは、こんなになるとは気づかんかったわなぁ。
TPPも、経済的合理性だけで議論しておって、えぇのかねという気がするなあおれはなぁ。