電離層代理Jh2dbqab2zvwi2p国家代表モニタ消防団の『スローなハムにしてくれ』
え~本稿は書きかけ項目ですσ(^。^;)バキ☆\(^。^;) こちらは1886年?フィンセント・ファン・ゴッホ
Een paar schoenen. / 1886
Vincent van Gogh 1853-1890
こちらは2009年テオッシュ・イットマイア
a pair of shoes in newspaper
Teosch Ittomeyer 1956-
これがウチのfinal weapon、ロシアンカメラFED5である。『フェド』と読むらしい。新品でなんと6,000円であった。写ルンですとそうかわらんが、写ルンですの一万倍ぐらいの知力を振り絞らんと写らんです。なんでアマチュア無線ブログでカメラの話をしているのかというご意見もござろうが、そこは疑問に思ってはいかんのでござる。
さて、見た目はそれほどヘンではないと思われるかも知れんが、それは写真撮影が上手に行われたからであって、実際には手にとってもらわんことには実感としては伝わらんこととは思う。なにしろ或る識者はこのカメラをして「これは写真機というよりは武器・兵器である」とのたまわれた。
なんでも、酔っ払って転びかけたとき、ついそばにあったクルマのフロントガラスに手をついたら、その手に持ってたこのカメラがフロントガラスに激突し、その際カメラはまったく損傷がなかったにも関わらず、フロントガラスはぐちゃぐちゃに割れたのだという。その識者は、このカメラを二台買ってロープで結び、ぶんぶん振り回せばヌンチャクよりも強いと述べていた。
このカメラを手にしてみるとそれはギャグでもなんでもなく、うんそうだろうなとただうなずくのみである。
ロシアがミグ戦闘機に真空管を使っていたとかなどの逸話も、このカメラを手にすればすっと腑に落ちるのである。このカメラは20世紀後半の東西冷戦の所産である。
さて、このヌンチャクのすごいところは、これで写真が撮れるという点にある。しかもその写りは、あの天下のNikonの10万円レンズ とほとんど変わらん。クリソツの描写をする。このあたりは「素晴らしい送信音ですね、collinsの最終型ですか」と訊いたら「FL/R-50Bラインです」と返ってきたときと同様の驚愕がある。思えばミグ戦闘機もNATO軍の脅威ではあった。
digital cameraというのは、ここ数年、飛躍的にその性能を向上させた代表格であるが、その価格はイッチョマエのものなら20万円がとこはする。このFED5は、繰り返すが6,000円である。
進歩とか改革とか、そんなもんは一種の気の迷いなのではないかと思ったりするのである。
ロシアン・カメラというジャンルがある。宮崎美子がピカピカに光って以来、カメラもまたAEだのAFだのと、ものすごいハイテク化の道を辿ったわけであるが、ベルリンの壁の向こう側では呆れ返るほどにローテクのまま、カメラ生産は続けられた。
結局いま、資本主義陣営ではびっくりするほどの対価を払わんことには入手できぬクラシック・カメラを、ちょいとロシアから取り寄せれば、これまた呆れ返るほど安い価格で「新品のクラシック・カメラ」が手に入るという、そういうジャンルがロシアン・カメラである。相当に「通」のジャンルである。
で、その程度はどうなのかというと、これがまためちゃくちゃにボロい。新品なのに、レンズのフォーカスリングはまわらんわ、シャッター速度はぐちゃぐちゃだわ、フィルム巻上げレバーを動かすとフィルムはちぎれるわと、こんなもん使ってられるかと思うのだけれども、実は出来上がる写真はおっそろしく素晴らしかったりするのである。「通」にはたまらんのである。
思えばベルリンの壁以前、Uゾーンから届けられるQSLカードは、まぁだいたいヘッタクレではあったけれども、中にはおそろしく綺麗な写真もあった。ようあんなクソ・カメラ使って撮ってたもんだな、すげー気長な連中だなこいつらはと思うのだが、やはりそこにはそれなりの文化的背景っつーものがあったのだという。
つまり、そりゃやっぱりロシア人にとっても、あのクソ・カメラはなかなか使いこなせるものではなかったらしい。なにしろライカをコピーしたとはいえ、コピーしたのは外観だけで、おそらくはギアの使用個数は1/20とかなのであらふ。バカ力でないと動かんのである。で結局、カメラをうまく操れる父親というのは、家族にとってはソンケーの対象であったのだという。
そういえば日本でも、スバル360で名古屋・東京間を旅してきたと言えば、スペースシャトル乗組員よりも喝采を浴びた時代というのが、ついこの前に存在した。箱根の山道でボンネットを開けて中を覗き込む父親を、すがるような目で見つめる家族というのがあった(かどうかは知らんが)。
おれには扱いきれん。と言った途端に父権が瓦解するという背景がそこにはあったのである。
クルマが誰にも扱えるものになったのを見たのは昭和40年ごろである。近所の権田さんちの姉ちゃんが就職して免許とってコルト1100買って、ウチのおやじはちょっと尊敬されにくくなった。
アマチュア無線がだれにでもできるものになったのを見たのは、コレはまぁおれ自身がそうした。昭和44年ごろであった。1年間ぐらいはソンケーされてた気もするが、同級生が次から次へと資格をとって、クラスは「なぁんだ」ということになった。瓦解は身をもって経験した。
カメラは宮崎美子であろうなぁやっぱりなぁ。昭和55年ごろのことであったと思う。瓦解したのでオレでも楽しめるわけであるから、これは感謝せなあかんのかも知れん。
昔、車を運転できるとか、アマチュア無線が趣味であるとか、写真をうまく撮れるとかであると、それは高い人間性の証左であった時代があったのである。なんのこっちゃ。